友だちと久しぶりに話した。会話の体感3〜4割にその友だちの恋人が登場し、不思議な感覚になった。私とその人は何の面識もなく私はその人に何の興味も抱いていないのに、おそらく「友だちと交際している」という一点のみにおいて私と友だちの会話に侵食してくるのだ。友だちにとって多少なりとも大切な部分を形成している人だろうから「その人の話をしないで」と面と向かって言いにくいし、どうしても聞きたくないというほど嫌悪感を催すほどではない。でも私と友だちの関係性にまったくの他人(私が捉えている友だちとの関係性においては他人)がポッと差し込まれる感覚。不思議だ。あなたは誰なんだ?

私にも交際している人間はいるけど、友人や知人と、交際者との関係性を共有したいという欲はないので基本的に話すこともない。だからなおさら相手の恋人(私と面識はない)の話をされると面食らってしまうのだろう。あと、交際している人間について話すと、大抵の場合相手は「男女交際」の枠に当てはめた上でリアクションを取ってくることが多く、そうすると、私と交際者との間の言葉や機微がまるごと捨象される。それに耐えられない。そういう反応を返された途端、あなたに私のなにがわかる?という感情が頭をもたげる。私に恋バナをふらないほうがいいと思う。

ふられたらふられたで適当に濁しているのだけど、以前は過剰に防衛的な反応をとるあまり、私に恋バナをふってきた/その場にいる他の人の交際や恋愛事情をぶしつけに聞いてしまっていた。まじで申し訳ない。今度からは恋バナをふられたらまじめな顔で「私は実家にいる柴犬を一番愛しています」と言うことにしようと思う。

「オッドタクシー」を観た。ノワールは好きだし、とてもおもしろくて一気に観てしまったのだけど、少し気になることがあった。

女性ジェンダーキャラクターと男性ジェンダーキャラクターの表象の幅にかなり大きな差があるのだ。男性キャラはセイウチやゴリラ、サル、ヤマアラシなど様々なフォルムや顔つきで描かれているのに対し、女性キャラの顔つきは一定の「穏当に可愛い」範囲に収まっている(特に目のデザインを比べてみるとわかりやすい)。ネコ、アルパカ、カンガルーという選択も「穏当にかわいい」に収まるものだろう。

(そもそも女性キャラが少ないからでは?)じゃあなんで少ないのだろう?ノワールだから?例えば剛力は、大門兄弟はなぜ男性として描かれているのか?

(アイドルやヒロインがかわいいのは当たり前でしょ)上に書いたことと重なるけど、なぜ女性キャラはアイドルという容姿も重要な職業や、ヒロインという物語の要請上容姿がかわいくあることを求められがちなポジションにしかいないのか?

(動物表象は小戸川の主観だし)最終話を見る限り実際の容姿と動物での容姿はある程度リンクしている。主観だから物語上設定されている実際の美醜と関係ないとは言えないと思う。

それが動物の姿形をしていてさえ、「女」(私が女と書くとき、それはほぼ全てにおいて「」つきです)に許容される外見の幅は狭いんだな、とどこかで諦めながら映画『オッドタクシー』を観ることになりそう。

ネトフリで「家をめぐる3つの物語」を観た。ホラーだけど人形の造形が妙にかわいい。特に第二話の、ネズミにしては体が細長すぎる妻がかわいかった…!胴体に見合わない短い腕が、がんばって擬態している感じを醸し出していて好き。

第一話は王道クラシックな屋敷ものホラーで、ふとした瞬間にところどころで知らないおじさんたちが不穏な動きをしているのがシャイニングっぽかった。ミステリにしろホラーやスリラーにしろ、屋敷ものが大好きだ。『ずっとお城で暮らしてる』、『レベッカ』、綾辻行人館シリーズ。どうしてもどこかに薄暗がりが残る部屋部屋、使っていない屋根裏部屋と塔、大勢が座って使用人が給仕する前提の広さの食堂などはホラーやミステリの舞台にふさわしいと思う。

電子レンジと濡らしたティッシュペーパーで焼き芋を作る。焼き芋のほめかたとして「ねっとり」という言葉が使われることが多いが、私はねっとり系よりほくほく系が好きだ。少しパサっとしているくらいでもいい。しかしスーパーなどで売られている焼き芋を見るに、多分焼き芋はねっとり系の方が人気みたいだ。

ノンカフェイン枠の茶葉としてスーパーにある黒豆茶ティーバッグをずっと買っていたのだが、今回は趣向を変えて韃靼そば茶という茶葉を買ってみた。香りの系統としては黒豆茶に近く、香ばしくていやされる。お茶を選ぶにあたって、もちろん味も大事だが自分はかなり香りを重視しているんだなーと気づいた。

柔軟剤や香水をつけるのが苦手(ETROのラジャスタンは好き)なのだが、お茶の香りと白檀のお香は好きだ。茶香炉が欲しい。

大型書店で散財した。以下、買ったものの一部。

クィア・シネマ・スタディーズ』
『ノンバイナリーがわかる本』
『愛について アイデンティティと欲望の政治学
『大きな鳥にさらわれないよう』
『葛原妙子歌集』
『現実のクリストファー・ロビン
『不平等の進化的起源』

『キャリバンと魔女』が置いてあった。かなり欲しかったけどさすがに重いので今回は見送った。

就活をしてみようと思い、はじめてある企業にエントリーシートを提出した。「あなたの長所と短所を具体的な経験を絡めて書いてください」「あなたが学生時代に直面した困難とそれをどう乗り越えたか書いてください」などの質問に答えていく。その際、整合的でわかりやすく正の方向へ終着するような物語へと、当時の自分の経験と感情を編集して整える。

特に後者の設問は、「自分はこんな困難を経験した→このようにして乗り越えられた→困難を乗り越えることを通じてこんなに大切なことを知った→これを今後に活かしていきたい」というフォーマットが暗に要求されているという点においてアーサー・W・フランクが『傷ついた物語の語り手』で提示している「回復の語り」と酷似している。

企業が就活生の「回復の語り」にしか興味を持たず、出口のない病いの苦しみを訴える「混沌の語り」には聞く耳を持たないというのは当然だろうな、と諦めながらエントリーシートを提出する。働く上で苦しいこと、つらいことがあってもそれを前向きに捉えて乗り越えた先に何かを得るような(少なくとも、そう取り繕えるポテンシャルがあるような)労働者じゃないと扱いづらいだろうしね。わかる、わかるよ〜資本主義が全部悪いよね。

板状の酒粕を買ってきて小鍋で甘酒を作ってみた。袋に印字されている分量通りに入れたのにいまいち溶け切らず、妙に薄くて変な味になった。夜中で憂うつなときだったので、あまりのまずさにさらに悲しくなり、衝動的に捨ててしまった。時間をおいて考えてみれば、もう少し水を足してみるとか粘って火を通して酒粕を溶かすとかすればよかったなと思う。

ちゃぶ台の上に一昨日くらいからのお菓子やそうざいのゴミが散らかっている。甘酒にしろゴミ捨てにしろ、もう少し粘って自分をケアしないとさらに精神的にまずい気がする。ケア→余裕というより余裕→ケアでは?とも思うけど。