映画『THE GUILTY』。固定された舞台で人探しをするという構造は「search」と同じ。こういう映画ってストーリーで引っ張る必要があるから見た目より作るのが難しそう。

舞台は基本的に変わらないけど、照明の色やや撮り方(例えば着信を示す赤いランプをキャラクターの主観っぽくゆらゆら揺れて見えるように撮っているのがうまかった)が工夫されていておもしろい。

話のフックとしてある種のどんでん返しがあるんだけど、つくづくどんでん返しって観客が持っている偏見や思い込みを明らかにするよなーと感じた。ミステリやサスペンスでは人々が共通して持っている(と思われる)偏見・思い込みが使われることが多い。

例えば叙述トリックの使われているミステリで、女性のキャラを読者にはあたかも男性であるかのように誘導する際、「その人は大学教授で、その日は仕事帰りだったためスーツにネクタイを締めていた」のような文章が所々に挿入される。このトリックは、多くの人の中に「大学教授ならだいたいある程度年齢のいった男性だろう、ネクタイをつけているということは男性だろう」といった無意識のうちの思い込み(偏見)があるからこそ成立しているのだ。

この映画だと「服役していた男なら、子どもも殺すだろうし元妻も誘拐するだろう(元妻は完全な被害者だろう)」という、観客だけでなく主人公も共通して持っている思い込みがストーリーをおもしろくするために利用されている。

話が進む中で観客と主人公はその思い込みが間違っていたと思い知るのだが、そのときは「だまされた!」という爽快感を感じるとともに、自分の中にある偏見にハッと気づかされもする。

SNSの投稿・トレンドを見ると、目の前を氾濫する多種多様な情報に対して即座に反応して言語化したり何らかの感情を持ったりすることを強制されるように感じてしまうことがある。SNS上で話題になるトピックの移り変わりは激しく、ある問題を見かけたときすぐに自分のポジションを明らかにして言葉にしないとなかったことにされてしまうだけでなく、無反応であるということ自体にある種のジャッジがされる。私も「あ、この人はこの問題に反応しないんだ」と思ってしまうことがあるので、私も誰かからそのようなジャッジを受けているのだろう。もちろんすばやく反応することが大事な場合も多いし、ハッシュタグムーブメントに意義がないとはまったく思わない。同じ問題意識を持つ人と繋がったり連帯したりすることができる利点はとても大きい。でも、自分の中でしばらくあたためて考えたいから即座にはSNS上で自分の意見を表明したいと思わないこともあるのだ。「即座に反応しなくていい」ということを前提におきつつ、それでも時間をかけて自分の考えや感情を言葉に落とし込み、それを他の人にわかりやすく伝えることも諦めたくない。

少しだけどUNHCRに寄付した。戦争反対、しか言えない。

読みたい本メモ

  • 『ハイブリッド戦争』(廣瀬陽子)
  • 『現代ロシアの軍事戦略』(小泉悠)
  • 『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次)
  • 『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)
  • 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子

ロシアがウクライナに侵攻した。戦争が始まったという表現が正しいのか正直よくわからない。2014年からロシア軍はクリミア半島を実効支配している。気分が落ちていて、自分にコントロールできる部分はとてつもなく小さい。とりあえず明日から信頼できる寄付・支援先を探そうと思う。

カップケーキとにんじんのグラッセを作って食べた。生活は続き、生活と政治は直結している。政治から目を背けて自分の半径数メートルを豊かに整えるのではなく、無駄が多く無益だが自分なりに楽しい生活を送ることによって牙を研ぐのだ。今日は頭が重いので早めに寝る。

今日はトイレ掃除、洗濯2回、掃除機かけ、本の整理をした。いくら部屋を片付け・清掃しても、部屋の大きさに対してもの(主に本)が多すぎるので一向に整然としない。本をいくらか手放すべきなんだろうけど、一度手放すともう二度と手に入らないだろうものもわりとあるのでなかなか決心がつかない。とりあえず実家に頼んで何箱分か保管してもらうつもりだ。でもスペースが空いたらその分また買い込んでしまうことは目に見えているのでキリがない気もする。

そもそも中身を減らす方向ではなく器を大きくする方向で解決したい。本の問題がなくてもこの家は小さく、日当たりが悪いので住みにくいのだ。感染症の影響から家で作業することがほとんどになったが、こんな場所に閉じこもっていてメンタルにいいはずがない。では引っ越すかというと、そこでも本が問題になる。すべての本を段ボールに詰めて引越し業者に引き渡し、新居に移り、開封して整理すると考えるだけでげんなりしてくる。あと一年くらいで部屋の更新期限が来るので、次こそはもっと広い家に引っ越したいとは思っている。

理想の部屋の条件

  • 1DKまたは広い1K
  • 日当たりがいい
  • 独立洗面台、ベランダまたは浴室乾燥、クローゼット、IHコンロ2口がある
  • 浴槽がある程度大きい
  • 駅から近く、最寄駅が大学から5駅以内
  • 音が漏れにくい
  • オートロック
  • 2階または3階
  • 家賃7万円以内
  • 築が浅い

引っ越したい。

ささくれていた指先が軽く熱を持っていたので皮膚科でもらった抗菌剤をひやひやしながら塗ったところ、無事に治った。以前同じようにささくれから腫れ上がってひょう疽になってしまったときにもらった抗菌剤なのだが、もう何度も活躍している。私は後何回「ささくれができる→つい剥いてしまう→腫れる→抗菌剤を塗りこむ→またささくれができる…」を繰り返すのだろうか。

就職の面接があった。「(他の業界と比べて)うちの業界が第一志望?」と聞かれた。どうしてそんなことを聞くのだろう。正直に「第一志望です!」以外の回答をしたら落とされそうだし、すべての就活生が第一志望でなくとも「第一志望です!」以外の答えを持ち合わせていないことは想像できるだろうに。あほらし〜となりつつ「たぶん第一志望です!」と答えておいた。落ちたら「たぶん」の部分が悪かったんだなと思うことにするよ。

SNS上で薄い交流のある知人がセックスレスで別れるかもしれないらしい。直接聞くほどの間柄ではないので聞かなかったけど、セックスレス「だから」別れそうというのがよくわからなかった。セックスレスであること、本人に性欲があること、恋人とスキンシップしたいこと、それらが別れるという選択につながり得ることがごちゃっとしている。

性行為に気乗りしない人に対して性行為を強要する権利はないため、お互い嫌じゃない範囲でスキンシップを取りつつ性欲は個人で対処するのが最適解な気がするんだけど、まあそういうことではないんだろう。

そもそも「セックスレス」という言葉が広く用いられているということは、交際している2人の間に性行為があることは当たり前だと見なされ透明化されているということである。デフォルトが「性行為あり」なのだ。しかしあたりまえに性行為があると見なされる関係ってかなり危ういしグロテスクではないか。例えば夫婦間の性暴力は「夫婦はあたりまえに性行為をする」という視点によって割り引かれて判断されかねないのではないか。

それはそれとして、「セックスレス『だから』別れたい」の詳細を想像してみる。

  1. 恋人と性欲の満足は分けたくない→その恋人と性行為ができないなら別れて他の(性行為のできる)恋人を探すしかない
  2. 属性によっては恋人などの関係性以外でより安全な性行為にアクセスすることが難しい→その恋人と性行為ができないなら別れて他の(性行為のできる)恋人を探すしかない

2は構造的な問題もあるけど、恋人との関係性を維持しつつ解決する方向性が見えなくもない。1はもう派閥の問題なので、同じ派閥の人たちで交際するしかない気がする。交際を始めた後で相手と派閥が違うと判明したらたしかに別れるしかないんだろう。